世羅高東京校友会の新しい親睦企画として、歩きながら千住の歴史を感じる「千住歴史散策会」を7月6日開催しました。
関東は既に梅雨に入っており、また、3日~4日には九州、四国にかけ線状降水帯の発生でびっくりするような雨が降り続いていました。当日、散策会を開催するかどうか非常に迷いましたが、前日、昼の天気予報では「曇り時々雨、雨の確率20%」と報道しており、開催することを決定いたしました。
千住宿は今から400年前に誕生し、南千住から北千住に続く道は日光、奥州、水戸へ続く主要な街道であり、江戸時代の処刑場、彰義隊の墓などが点在し、また、松尾芭蕉「奥の細道」の旅立ちの地でもあります。
更に、秩父、川越からの船荷の集散地でもあり、多くの物資と人とが行き交う流通の拠点として早くから整備され宿場町として賑わってきました。当日、我々は南千住駅前の芭蕉翁の像に迎えられ、書き物を片手に、いかにも俳人という風情でありました。
次いで小塚原刑場跡の延命寺とその隣の回向院を訪ねました。安政の大獄に関連した吉田松陰、橋本佐内などの人達が処刑された場所で、その墓があるというので何となく怖いような雰囲気の所だったのは気のせいでしょうか?
杉田玄白らの解体新書の腑分けも此処で行われたそうです。
南千住の商店街を西に抜けると円通寺があります。この寺には上野戦争で敗れた彰義隊266人が眠っています。また、この戦いの弾痕を残す黒門(総門)は上野寛永寺から移築されています。
ここから日光街道を北上、千住大橋の手前「素戔雄神社」に到着しました。当神社には芭蕉翁の奥の細道矢立初めの句碑が立っていました。
「行く春や鳥啼き魚の目に涙」
この句はこの後、千住のあちこちに立っているのが印象的でした。
千住大橋は1594年、隅田川に初めて架けられた橋であり、橋を渡ると大橋公園があります。葛飾北斎の富嶽36景の一つ「千住花街眺望の不二」の記念碑が立ち、芭蕉翁の「奥の細道」の全行程が地図として掲示されていました。
伊達政宗が寄進したといわれる高野槙の杭が隅田川の中に現存し、その杭を示す浮き輪を隅田川の川面に見て、旧日光街道を北上すると足立市場に到着します。都内に三カ所ある中央卸市場(足立、豊洲、太田)の一つで、唯一水産専門市場であります。
この入り口にも芭蕉翁の像があり、南千住の芭蕉翁とは違う雰囲気を醸し出していました。
足立市場から北側の街道は、いわゆる「やっちゃ場」という青物問屋が多く集まっていた所であります。主な取引は野菜や川でとれた小魚等が売られていました。特に千住葱は今でも売られているが、特産物だったようであります。今は、当時あった石畳と店の名を示す掲示物が残るばかりでした。
千住宿歴史プチテラスでは当日、「やっちゃ場」の歴史的資料を展示していました。
浅草から一里を示す一里塚の道標を過ぎ、高札場跡、貫目改所跡を経て、朱塗りの山門を持つ勝専寺に到着しました。この寺は、徳川家ゆかりの寺で屋根に葵のご紋もあります。徳川秀忠は鷹狩りに、家光・家綱は日光に社参する際、何度もこの寺に逗留しています。
1900年初期に建てられたドイツ風の建物の大橋眼科(今も開業中で驚く)を通りから眺め、検番のある昔の色街の跡を通り、本陣跡地に到着したところで、12時30分、昼食の時刻となり、予定していた横山家住宅、名倉医院を残し終了としました。
千住歴史散策会は雨の心配があったにもかかわらず14名の方に参加していただきました。当日は円通寺辺りで、霧雨のような弱い雨に10分位降られただけで、あまり気になりませんでした。また、気温も24℃位で暑くも寒くもなく、無事に歴史散策が終了出来てほっとしました。
夢庵という所で、いつも通りに昼食と小宴会を行い、楽しい千住歴史散策会を終わりました。
昼食会終了後も一部の方々よりの希望により、歴史散策の残りの横山家住宅、名倉医院も散策をいたしました。
今回の歴史散策会は、千住の歴史を知り、8000歩位のウォーキングで頭と体を使った会員の楽しい親睦会でした。今後もこのような歴史散策会を計画いたしますので、是非、多くの方々の参加をお待ちしております。(木原)